◎信心の根本は親孝行。初めて参ってくる特に若い人達に一番初めに申しますことは親孝行ということ。親孝行しとうてたまらんということ。本当の親孝行とは。させてもらう親孝行、そこには信心が必要。
%1(親奥様)親なればこそ 
%2大坪家のめぐり
%3親先生の親孝行心の変遷。
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%W
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昭和四十三年九月三十日朝の御理解


 この中に神誡というのがありますね、私どもはX御神誡といいます。または真の道の心得と申しております。十二か条ですね。これは月次祭、大祭なんかの時には巻物になっているものを先生が必ず読み上げられます。子供の時からこれは覚えておりました。必ずこの御神誡を読まれる。

 今はこの御神誡よりも立教神伝の方がもっと大事であるということがだんだん分かって、ただ今では立教神伝の方を読まれます。ここでは読まれませんですね。時間がございませんですから読みませんですけれども、よその教会では必ず立教神伝を必ず奉読されます。昔は必ず御神誡を奉読されたものです。「神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと」「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」

 %Uこの神誡、戒めというか、なんと申しましょうかね、この信心をするならこうあってはならない。いろんな宗教にそれがございますね。例えばキリスト教では十戒というのがございます。仏教では五戒という。例えば、仏教では殺生をしてはならない。魚どもとったらならん。特に道に立つお坊さんたちは、今はそうではありませんけれども、【】ちゃならない。この山には女人禁止、女は登っちゃならないといったような掟があった。

 %Uこれはキリスト教でもそうですね。十戒の中に、お酒は飲んじゃならない。許されるのはぶどう酒だけ。仏教の真言様でもそうですね。酒は絶対口にしちゃならない。だから篠栗さんなんかに御参りするのにはぜったい酒は飲まれません。ですから、ごま酢といって飲めばいいと、そいけんごまかすわけですね。ごま酢といって飲めばいい、真っ向からは酒は飲んじゃならん。

 %U何なんの信心をすればこうしちゃならない、ああしちゃならないという厳しい、その道を体得するためにはそこを通らなければならないというのです。その五戒とか十戒とかいうものとこの御神誡は意味の違うようですね、少し。漢字が違いますもんね。神誡の誡が。

 それは別といたしまして、この真の道の心得御神誡というのも、実際この十にか条を読んでみますと、はっきり具体的には教えてないですね。非常に抽象的です。例えば「神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと」「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」など、例えば酒を飲んじゃならんとか、こうしてはならんとはっきり言うちゃないです。ですから御道でいうところの神誡というものは、本当に御道の信心を頂いて、お話を頂かなければ分からない。天の恩とはどげなこっちゃろうか。地の恩ちゃどげなこっちゃろうかとか、聞いて初めて天の恩も有難い、地の恩も有難い、天地の大恩を知ることによって神恩報謝の生活ができるということが分かるのである。それまではわからん。というほどに抽象的である。

 「口に真を語りつつ心に真のなきこと」さあその真そのものが、どこまでが真やら見解がつかんのですよ。非常にいうならあいまいですね。曖昧というのもおかしいですけれども、むつかしいです。ですからどの一か条も守っておらんといよとですもん。たびたび読みよるけれども。【】の人が実際。それを行じにくいほどにむつかしいことをいわばいうておられる。しかし信心がだんだん分かっていくと、それがどういうようなことか分かっていくといったような感じの中身です。

 ここにはっきり、これが誰でもが分かることをいうておられることがありますですね。「まめな時家業をおろそかにし物毎におごること」これなんかは分かりますね。はっきり。元気な時に家業をおろそかにしてはならない、また物毎におごってはならない。これなんかははっきり分かります。

 「信心する人の真の信心なきこと」なんかはいよいよ分かりませんですね。「腹立てば心の鏡のくもること」なんかは、これは大変にむつかしい。「わが心の角でわが身を打つこと」というてもいい。そうしてはならん、こうしてはならんちうのじゃない。腹が立つと心の鏡がくもるぞと、こう仰る。だから腹の立った後にはくもった心を拭いておけぬぐっておけよという意味であって。腹を立てちゃならんぞというのじゃない。

 ところが、他の教えにみる、五戒とか十戒とかいうのは、酒は飲んではならん。こうしてはならんというふうに【】あるかどうかは知らんですけれども、まあそうですね。そういう中に、これははっきり誰でも分かるという中に。「幼少の時を忘れて親に不幸のこと」やっと生まれてこの世に生を受けてこの方、大変な苦労をかけますよね親には。

 %1%2夕べ休ませて頂く、十二時、今朝早かったんですけれども、何かに時間をとってしまった。そして子供が「お母さん、お母さん」というて、お母さんを訪ねよる。「もう休んどるとやろう」と申しましたら、どこもおらん。「どこさに行ったじゃろうか」そしたら若先生の部屋に行った。「どうしよるか」ち、そしたら若先生が久留米から帰りましたら、しばらくしてから足が痛んだ。子供の時から足が痛むんですよね。これは大坪家のめぐりだと、こう思う。それが痛むのがひどいらしい。

 %1それが兄弟たちが移り変りしよるが夜中になると誰も眠たいですから、家内がよる遅くまで揉んでやったらしいんですよ。もう他のことはできなくても、母親だけは、やっと生まれてこの方だけじゃありません。まして二十四、二十五になってからでもやはり一番子供のことを心配したりみてくれるのはやはり親である。幼少の時だけでない。そだってからでも。まして自分たちのぜんぜん知らない中に手足を伸ばしていくために大変な苦労をかけておる。そのことを忘れて親に不孝のこと、これははっきり言うておられます。

 %Vですから金光様の御信心はですね。本当はここが根本なんですよ。信心を進めていく上には。そんならば親に孝行のこととなるのです。その反対、不孝のこと。親に孝行しなければならん。そりゃ孝行しなければならんとは分っとるばってんなかなか出来んというのが一般である。そりゃいっちょ不孝しようてんなんてん言うのはまずいない。孝行せんならんと思うとる。けれども出来んだけのこと。そして少しできるようになったら「お母さん、着物作ってあげましょう。小遣いあげましょう。さあ温泉にも行きなさい。」しかしそれで親孝行したと思うと大変間違いなんです。それはかえって親孝行じゃなくて、親不孝になることすらがおうおうにして、いわゆるそうです。

 %Vそこで私どもが、私、初めて参ってくる特に若い人達に一番初めに申しますことは、「あなたがたは願いを聞き届けてもらわなならん、おかげ受けなならん、おかげ受けたなら参っておいで、そしてからその時に私がお話をしてやろう。」と申しますけれども、けれどもこれだけは一生懸命に思いなさい。「親に孝行しようごとしてたまらん」という気持ちになりなさい。「親に孝行したいだけじゃなくて、親を大事にしようごとしてたまらん。親に喜んでもらおうごとしてたまらん。くらいな気持ちになりなさい。それが本当の親孝行である。」というふうに申しますです。

 %V%Wそういう心ね、そういう心がけが神の気感にかなうからおかげになるのです。私はそう思うです。そこに私どももですね親に孝行しようごとしてたまらんという気持ちになって、本当に親の喜ぶことならば二十四孝にあらわれてくる、夏に蚊がたくさんおる、病気の父を看護しておる息子が自分がはだかになって父親の枕元に一晩中座ったと、こういう、はだかになっておる息子に蚊がいっぱいとまる。そして、血を吸わせて父親の体に蚊がとまらんようにしたというわけなんですね。

 %Wまたは寒中に親がたけのこ食べたいというから、こんな寒中にたけのこがあるはずがないけれども、親が言うことじゃからと思うて親に孝行することだと思うて、雪の庭に下りてたけのこを掘ったという。こんな話が残っておりますね。支那の二十四孝というて、そういう孝行した人を二十四集めた小説なんですけどね。

 %Vですから、果たしてそれが本当に親孝行になるだろうか。子供が蚊にくわれておる姿を見てから、親はどれくらい切ないじゅつない思いをするだろうか。いくら親孝行とはいえ、それをみる親の気持ちは決して親孝行じゃない。ですから、私どもが親孝行と、例えば思うておったことが案外親孝行でないことが多い。おいしい物を作ってあげる。着物を作ってあげる。隠居所を作ってあげる。さあ温泉にでもいきなさいということが決してそれだけで親孝行ではない。親の本当のよろこびを得ること。

 %G%3私が引き揚げてからの信心はやはり親に孝行したいばっかりの一念であった。それはなぜかというと、私、北支あたりまでも、いわゆる出稼ぎですね、働きに行ったのも、本当に親によろこんでもらいたい一念で行ったんですけれども、それは思いはかなわなかった。それは反対に親に心配をかけるようなけっかになったんだけれども、引き揚げてくるという結果になった。しかも焚き物すらが遅配欠配という、大変難儀な、国家的な難儀の中にです。こういう中にもし親が死んでもしたら、もう目も当てられんと思うたです。そこで神様におすがりさせて頂いて、両親がなくなったら明くる日から貧乏になったちゃよかけんで、私は本当にお願いいたしました。両親がなくなったらまたもとの木阿弥になってもよいから、どうぞうんと金儲けをさせて下さいと。そして食べる物ぐらいは不自由のない、欲しいという物は何でも買うて与えられるくらいのおかげを頂きたい。その一念が一生懸命の信心になった。

 %V%3例えばその時神様が聞き届けて下さって、私がその時にお金儲けをしてです、両親に、闇で買えば何でもあるということなんだから、おいしいもんでも何でも買うてやって、着物作ってやって、家を建ててやって、なるほどそれはよろこぶことはよろこぶでしょうけれども、本当のよろこびにはならなかったと思うのです。

 %V%3その時に私の願いが成就しなかったということがおかげであった。同時に信心させて頂きよるうちにです。この世にはもっともっと大きな親があることに気付かせて頂いた。それは、まず教会第一の親孝行者になろう。教会第一の忠信になろう。忠義者になろうと、一生懸命になった。

 %V%3そうしていきよるうちに、もっと大きな親のあることに気がついてきた。教団である。金光教という。

 %V%3そして、もっともっと分からせて頂いたのはです。本当に神様におよろこび頂けれる信心、天地の親神様に対するとことの親孝行、そのころから桂先生の教えられてある御教えがだんだん分かるようになってきた。「親に孝行して神に不孝して、親に不孝をしておる氏子がある。親に不孝して神に孝行し、親に孝行しておる氏子がある。」というふうにいうておられる。

 %V%3いかにも親には不孝のようにあるけれども、信心を一生懸命にさせて頂きますと、まずなんというても一にも神様に二も神様ということになるから、親というのが影が薄うなってくる。そして、本気での親孝行、例えていうならばですね。それこそ一番大事なのは世界中で他にはない。両親ぐらい大事なものはない。けれどもどんなに世界一大事な両親が私に泣いて頼んで「こうしてくれ、ああしてくれ」と頼んでもです。神様がいかんとおっしゃるなら神様の仰せには背かれない。というのが私のこれは一徹した考え方であった。

 %V3そういう事実がその当時はいくらもあった。そしてだんだんおかげを頂いてです。神様のお心が少しは分かるようになり、その神様のお心に添わせて頂くようにならせて頂いたら、親孝行になっておるかどうか分らんけれども、現在私に対して両親が安心しておってくれるであろう、よろこんでおってくれるであろうということがある。

 %3というて現在私がなでたりさすったりするわけじゃない。着物一枚作ってやるわけじゃない。おさんせんひとつ差し上げるわけじゃない。

 %V%3けれども一番最初は、親に孝行しゅうごとしてたまらんというのが出発点なんだ。だから、ここを抜きにして皆さんが、ここを抜きにして途中がどんなに素晴らしく分かったってだめだということ。だから、親に孝行せんならんもんじゃなくてですね、親に孝行しゅうごとしてたまらん。そんためには自分の身を犠牲にしてでも、本当に親のよろこぶことがあるならば自分の身を犠牲にしてでも、あえてそれを受けていかねばならんと思う。

 はだかで蚊に自分の血を吸わせるくらいの、いわゆる自分の身を犠牲にしてでも親がよろこぶことならば、しかしそれが本当によろこぶことかどうかということは、確かめ確かめしていくとです。なでたりさすったりじゃなくていよいよ信心を分からせて頂くということです。

 昨日の教祖生誕祭の私のあいさつの中にも申しましたように、教祖様がおよろこび頂ける、これなら神様がよろこんで下さるに違いない。お年寄りをその日だけ取り分け大事にさせて頂こうというので、七十以上の老人を招いて慰労会のようなことをやらせて頂く。信心を分からせて頂けば頂くほど大事なもの、自分から切っても切れないもの、信心止めれといわれても止められるもんじゃない。というほどに大事なものになってくる。

 信心は命だと、いや信心は命以上だというようになってくる。ところがその信心がです、命であり命以上であるというても、そのように分かってきても、親に孝行しゅうごとしてたまらんというような心がなかったならもうそれは宝の持ちぐされです。

 いうならそれは中途半端な信心というていいです。信心は命だ、いや命以上だというように大事なものであるということが分かる。分かったならばそれを表わしていかなければだめなんです。そういう大事なものをちゃあんとしまいこんどったちゃなにもならん。大事なもの、そんなに命より大事だと思うようなもの信心を表わしていく。その表わしていくということの中に、親孝行がある。

 御神誡にたくさん十二か条教えておられますけれども、それはいうならばつかみ所のない抽象的なことの中にです、ここにはっきり「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」と仰る、このことは誰でも分かる。しかもその親というのは親のまた親である。代々の親という先祖である。天地の親神様に対するところの親孝行、天地の親神様のみ心に添い奉りたいという、親神様へのお喜びを頂きとうて頂きとうてたまらんという心である。それが分かり、それが行じられていくうちにです、親孝行、いわゆる肉親の親です。親孝行しようごとしてたまらんと思うておった親に喜んでもらえれる本当の親孝行ができる。

 「親に不孝してかみ孝行する氏子がある。」親に不孝して神に孝行しその後に親に孝行する氏子としてのおかげが受けられるようになる。本当の親孝行。本当に親に安心してもらえる子供、親に信用してもらえれる子供、これがなんというても一番の親孝行だと思うのです。

 %Vそれでいてですよ、お小遣いであり、着物であり、なでたりさすったりである。そこんところを抜きにしてですね「さあおじいちゃん温泉にでん行ってらっしゃい」金は一万円だんぽんと投げ出してやる。いかにも親孝行のごとあるばってん、それは決して親孝行じゃない。中途半端な親孝行、だから結果においては親不孝する氏子があるという結果になってくるです。

 本当に親に孝行したいという気持ちをそれこそつのらせる。信心によって。ですから、例えていうなら本当に親が喜ぶ、安心することならばどういう犠牲でも払わせて頂こう。その犠牲が信心の修行ということになり、信心の力を受けて、信心の徳を受けて、そして後こうするのが本当の親孝行、お互い信心の目的、信心が分かる。

 昨日の中にも「親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」というところがあったでしょう。本当にあいよかけよで立ち行くところのおかげというものが願いにならなければならない。これは案外親孝行せなならんことは分っとるばってんできておらん。本当に親孝行場しようごとしてたまらんと、私どものように、私どもはそのように親孝行はしたい、しかし実際はできない。ああいう国家的な難儀に直面して、着のみ着のままで一家中のものが引き揚げてくるというような、そういうみじめな姿を親に見せて、それを親が嘆かない悲しまないはずがない。これじゃあいすまん。このまましなれどもしたらもう目も当てられない。そういうところに直面した時に初めてですね、本気で親孝行がしたいという心がつのってきた。

 しかもその親孝行がほんなものになってきておかげを頂いて神様がいわば適当な親孝行をさせて下さるという気がいたします。過ぎたるは及ばさるが如し、適当に喜んでもらえれる親孝行でなければほんなもんじゃない。

 「食べんの、食べんの」というてから食べ過ぎてから、胃が悪いということにならせたらいくまいが、「さあ温泉に行かんの」というてから、ちゃあんと温泉に行ってからお湯の中でのびとってからちゅうような事実があるです。ですから本当にそこんところは神乍らなおかげを頂かせてもらわなならんのです。

 今日は御神誡の中に、いわゆる御教えを頂いても、これは信心をしなければ、信心を進めていかなければ分からないという御教えの多い中に、ここにはっきり「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」これだけははっきり私どもも分かる。ただ分かっただけで、「孝行せやんどころじゃなか」というだけじゃいかん。本当にしようごとしてたまらんというのである。

 親が生きてござる間に本当に安心して、喜んでもらわなければそれこそ目も当てられんという切実な気持ちである。それがお互い信心に拍車がかけられることになって、親のまた親のことが分かるようになって、そのまた親に対するところの忠実な信心ができてくるところから、親孝行しようごとしてたまらやったその親孝行がです、適当に神乍らにできるようになると、私は確信いたします。私が頂いておるところです。

 自分の両親がいっちょんよろこびよらん、安心しとらんというなら出来んですけれども、私は自分でそう信じております。私の両親は本当に喜んでくれておってくれとると、安心しておってくれとると、私を誰よりも信じてくれておると。おかげで親孝行ができますというおかげでなからなければなりません。

 %V私がする親孝行じゃつまらん。私がする親孝行では必ずというか、親をして間違いがある。さしてもらう親孝行、そこには信心が必要である。信心が命だと、信心がいや命以上だと、信心が大事なことであると分かってきた、その信心がそのような形の中に、親孝行なら親孝行の中にそれが表わされてこそ信心。値打ちというものがいよいよ発揮されるのでございます。どうぞ。